所属や職名は、取材当時のものです。取材日:2019年2月
(執筆・撮影:荒舩良孝/科学ライター)

数学に目覚めた授業

インドネシア出身の数学者アデ・イルマ・スリアジャヤさんは、研究者仲間や同僚からは、親しみをこめてチャチャというニックネームで呼ばれています。チャチャさんは、大学に入学した時点では、数学者になることは考えてなかったといいます。

発展途上にあるインドネシアでは、自然科学よりも工学の専門家の方が社会的に求められているために、多くの若者は大学で工学を選択します。チャチャさんも、社会の役に立とうと航空工学を学ぶために、中国の南京航空航天大学に入学しました。しかし、1年生の最初の学期で受けた微分積分の授業と演習で、数学のおもしろさに目覚め、本格的に数学を学びたいと考えるようになったのです。

航空工学から数学への分野の転向は容易ではありません。数学を学べる道を探った結果、チャチャさんは3年次に名古屋大学へ留学することを決めました。名古屋大学では工学部に在籍したものの、数学を中心に勉強を進めたのです。「純粋数学は、すべてのものを自分で証明していく過程がおもしろく、ますますのめり込んでいきました」とチャチャさんは振り返ります。留学を終える頃には、数学者になる決意を固めました。

南京航空航天大学に戻ると、留学で取得した単位をもとに理学部の応用数学コースに転向できるように交渉したそうです。このときは、チャチャさんが数学に目覚めるきっかけとなった微分積分の授業を担当していた教員が親身になって助けてくれたおかげで、無事に転向が認められ、4年で卒業することができました。同時に、名古屋大学大学院多元数理科学研究科の修士課程に入学する準備も進めていきました。

少しずつ理解を深め、広がる世界

大学院での研究テーマとして、チャチャさんが取り組みたいと考えたのが、L関数の零点の分布です。いくつかの研究集会に参加し、最新の研究発表を聞いているうちに、関心が高まっていったそうです。このことを大学院の指導教員に相談すると、ゼータ関数を微分した1階導関数の零点に関する論文が紹介されました。

チャチャさんは最初、「L関数の零点について研究したいのに、なぜ、ゼータ関数の零点についての論文を渡されたのだろう」と不思議に思ったそうです。でも、この論文について勉強を進めるうちに、「ゼータ関数の1階導関数をもう一度微分して、2階導関数にしたらどうなのるのか」という疑問が湧いてきました。実際、ゼータ関数の2階導関数の零点について考えることで、ゼータ関数とL関数の零点の性質を調べる手法を身につけることができたのです。

チャチャさんの研究はだんだんと広がっていき、博士号を取得するころには、L関数の導関数の零点の分布の研究に取り組めるようになりました。「先生や先輩に助けてもらいながら、ゼータ関数やL関数についての理解が少しずつ深まって、自分の世界が広がっていきました。自分の考えが正しいかどうかを、自分で確かめて、証明できるのが、数学の魅力です」とチャチャさん。

いくつもの分野からたくさんの知識を吸収

2017年4月、チャチャさんは、基礎科学特別研究員としてiTHEMSに着任しました。理研は長い間、数学者を採用してこなかったので、iTHEMSに数学者が加わることは、多くの数学者が注目していました。チャチャさん自身、研究集会に出席すると、iTHEMSでの研究環境について、たくさんの人から質問を受けたそうです。

数理科学を軸とした分野横断型研究を進めるiTHEMSでは、物理学、生物学など、様々な分野の研究者が、自身の研究について他の分野の研究者に説明するセミナーやコロキウムがたくさん開催されています。チャチャさんは、和光市の研究室にいるときは、なるべくこれらの勉強会に参加して、多くの知識を吸収していきました。

そして、ウィルス学に取り組んでいる生物物理学者と出会い、そのモデルを構成する2種類の微分方程式が同じかどうかを証明することにも取り組み始めました。「これまで、微分方程式についてあまり考えたことがなかったのですが、話をしてみるとおもしろそうだと感じ、共同研究することに決めました。ただ、関数や変数が示す意味を尋ねても、相手はウィルス学での意味合いを語るので、数学者として欲しい情報が得られないことが多いといった苦労もありました。iTHEMSに来なかったら、このような研究はできなかったでしょう」とチャチャさんは語ります。

iTHEMSの一員になったチャチャさんは、物理学、生物学だけではなく、数学の中の他の分野についても学ぶことができたといいます。「数学は、少し分野が違うと、数学者にとっても難しくなります。iTHEMSでは、基本的に専門外の人に向けて話をするので、他の分野の数学を理解しやすくなります。しかも、2017年度は結び目理論、2018年度は作用素代数と暗号論の講義と1年間通した講義も開催され、じっくり勉強できました。新しいことを学ぶと、それをものにするまで時間がかかります。iTHEMSには、自分の興味があることは積極的に学び、質のいい論文を書いたらいいという雰囲気があるので、私は安心して勉強し、新しい研究に挑戦することができました」とチャチャさんは、嬉しそうに話します。

補足説明

ゼータ関数

ゼータ関数は、ディリクレ級数と呼ばれる無限級数を関数としてとらえることから始まった。数学者ベルンハルト・リーマンが、このゼータ関数を複素数にまで拡張してつくったものは、リーマンゼータ関数と呼ばれる。ゼータ関数は振る舞いや性質の異なるものが複数知られているが、一般的に、単にゼータ関数と表現するときは、リーマンゼータ関数を指すことが多い。

L関数

L関数はゼータ関数の研究から発見された関数。リーマンゼータ関数において、無限級数を構成する分数の分子がすべて1になっている。この1を特殊な関数に置き換えてつくられた関数は、ディリクレL関数と呼ばれる。以降、様々な種類のL関数が発見され、研究されている。

結び目理論

輪っかになったひもの結び目を数学的に考える学問。位相幾何学の1つの分野。

作用素代数

ハンガリー出身の数学者ジョン・フォン・ノイマンによってつくられた。作用素環とも呼ばれている。もともとは、量子力学の性質を知るためにつくられた数学的な概念であるが、その本質は、無限次元の線形代数。位相という概念を用いて、無限を理解するもの。関数解析学に分類される数学の分野だが、代数学、幾何学、解析学など幅広い分野にも関係を持つ。

ゼータ関数とL関数

数学者レオンハルト・オイラーは、すべての自然数nの実数s乗したものの逆数を足し合わせていく無限級数について、sに対応した関数として研究していました。このとき、オイラー積と呼ばれる表記法を発見し、素数の性質を知る関数として利用できるようになったのです。

その後、ドイツの数学者ベルンハルト・リーマンが、この関数のsを複素数に拡張し、リーマンのゼータ関数をつくりました。ゼータ関数の性質は謎に包まれていて、多くの数学者の関心を集めています。有名なリーマン予想は、ゼータ関数の零点、つまり、ゼータ関数が0になるsの値の分布と関係しています。

L関数はゼータ関数と似た関数で、複数あることが知られています。その中には、1994年にアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を解決する際に、深く関わったものもあります。また、ゼータ関数と似たふるまいをするL関数は、ゼータ関数論において新しい発見の鍵を握っていると考えられています。

(写真は、2019年3月22日 - 27日に行われた研究会の様子。チャチャさんがオーガナイザーの1人)